めをあけて
《げんき》
語尾上がりの質問だとわかっていると思うがあえて、クエッションマークはつけないようにし、gmailを送った。
嫌なことがあった。風俗に従事しているあたし。
嫌な客につき、無理やりキスをされ、濡れてもいないのに指を突っ込まれたくさん泣いた。気持ち悪かった。70歳くらいの老体から放たれる老体特有の鼻にツーンとくる意味のわからない匂い。メガネがないと見えないからといい、メガネを外さないのに顔を近づけキスをしてくるので、無機質で冷たいメガネのつるがあたしの顔に無遠慮にあたり、顔に傷が出来た。
先にお客に帰ってもらい、大きなベッドの上で大声でたくさん泣いた。泣きわめき悲鳴をあげた。
震える指先で打ったメール。
返事はその日から数えて3日後に来た。想定内だ。すぐに返信をしない男。
不倫をしている男。
『げんきではない』
唐突に容赦なく電話をしてくる。なんとなく鼻声だ。
『風邪、なの』
確信はないが、明らかに鼻声なので語尾をあげる。なの?と。
『ああ、そう。参った』
参っている顔が目の前に浮かぶ。男は建築家で現場監督だ。だいたい、毎日忙しい。
『休ん、あ、休めないか』
休んだの? などと言えば、真っ先に返ってくる言葉はわかっているので、あえて、休めないかに言いかえる。
『だな。けど、大分良くなった』
『そ、う』
無言になる。あたしから言わせたいのだ。男からは絶対に言わない台詞を。
『あいたいわ』
『顔が見たい』
男の言葉など挟まずに、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。男はおし黙る。
『あと、1時間で設計事務所出るから。1時間したら、いつものホテルに』
悩んだあげく。なやんだあげくの言葉にあたしはたちまち心が弾む。
『うん。わがまま言ってごめんなさい』
見えない男に頭を垂れた。
何回も別れている。奥さんにも知られあたしは離婚をした。たくさんの人を巻き込み傷つけ苦しめた。不倫は常に女が傷つくように出来ているのに、不倫の耽美に溺れ浸りうっとりしてしまう甘い罠に嵌ってしまったら抜け出すことはできない蟻地獄。
『はぁ』
ため息しか出ない。なぜこんなにもたくさん愛しているのだろう。たくさん男はいるのに。
『飲み会があってさ、まあ酔ってお施主さんが酒癖悪くてまあ、』
ほんのりとトーストされた男の横顔をしげしげと眺めながら、時に頷き、時に笑い、相づちを打ちながら話を聞いている。
『すごいね』
『えー!たいへんじゃん』
『忙しいのはなによりよ』
男の話す仕事の愚痴のあいさに、言葉を挟む。家庭に仕事は持ち込まないのが男。あたしは奥さんには話さない仕事の愚痴を聞くとたちまち優越感に浸る。奥さんの知らない顔をあたしは見ている。顔も知らない奥さんに鼻白む。ざまあみろ。
けれど、ざまあみろ。は、本当はあたしだ。
男と逢う理由は互いの近況の確認と肌を重ねるだけだ。
愚痴をたくさん吐露した男は無言で立ち上がりシャワーを浴びにゆく。
流れはとても自然だ。あたしも男が必ず用意しておいてくれる歯ブラシ(袋から出して歯磨き粉をつけてくれる)を咥えシャワーを浴びる。
部屋は薄暗くなっている。顔があたしだとわからないよう、暗くする。と、以前男がなんの脈略もなく口にした。
『失礼よ』
女なら誰でもいいみたいじゃない。あたしは口を尖らせた。
『お前だと思いたくない。お前とはすでに終わっているはずだから。最低限の足掻き』
『意味がわかんない』
遠くて新幹線の通過する音が無言の部屋に響き渡る。
男は自分に自制をし、いつでも自分を戒める。あたしも同じ罪をおかしているのに。
今からまた、罪をおかす。
男は病み上がりの身体であたしを慈しむように綺麗に抱いた。あたしの身体を全て熟知している。
男があたし身体を折り曲げ、もっとも早く抽送を送る。
顔があたしの真上にくる。
あたしは目を見開き男の頬を持ち、呟く。
『お願いよ。目を、あけて、』
震える声。乾いた唇。
男は細く目を開けた。暗闇でもしばらくすると目が慣れてくる。
時間にしたら数秒。あたしと男は視線を絡ませる。虚ろな悦を帯びた目があたしの子宮をおかしくする。
『す、き』
1回だけ呟いた。男からの呼応はない。あたしだけが放つ言ってはならない言葉。あたしは抱かれるたび愛してしまう。禁忌な恋だと知り得ている。誰にも言えないもどかしさは抱かれぞんざいに扱ってくれる他になすすべはない。
『あ、』
あたしの中で果てた男は、始末をし、あたしをそうっと抱き寄せた。
『ばか』
肩で息をしていた乱れた呼吸が整って来た横から、小さく男が言った。男はやれやれと言わんばかりに続ける。
『あの、タイミングで、目を開けて、とか、反則行為。ペナルティー』
怒っている口調ではない。むしろ照れている。耳朶が紅潮していた。
『ごめんなさい』
横顔が綺麗にカーブを描いている。
どうしたってこの男を嫌いにはなれいし、失いたくはない。
男はあたしを抱く。言葉などよりも現実味がある。愛されているという事実がそこに。
別れの時間が迫っている。いくか。男がベッドから降りようと腰をあげた。
あたしは、その腕を掴み、行かないで、という言葉を飲み込み、あたしも。シャワー行く。と、言葉をすりかえる。
『うん』
2人でシャワーを浴びる。汗と唾と体液を水で流せばまた日常に現実に戻る。
『またな』
あたしは、小さく頷く。男の背中を眺めながら心の中で雨を降らす。
おもては雨が今にも降り出しそうだ。ムワントするアスファルトの匂いは嫌いではない。